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ニューヨーク日記

 

ニューヨークを生きる:知識人と公共性
橋本努
Postscript on my
New York Stay, 2002.9.

 

 

1 お別れ

 二〇〇二年春、オーストリア学派のコロキアムが五月に終了すると、ヤンバック教授は私を彼の邸宅に招いてもてなしてくれた。韓国系移民の彼の人生論はとても興味深く、その日の夜は二時すぎまで語りあったことを思い出す。また、ブリーカー通りの最高の立地条件にあるビル・ビュートス教授のアパートでは、オーストリア学派のメンバーたちとの和やかなパーティ。こちらでも人生談義を楽しんだ。サンフォード・イケダの家族とはチャイナ・タウンとリトル・イタリーでお食事をした。また僧太鼓のメンバーたちには、アッパー・ウェストサイドのレストランで盛大なパーティを開いてもらった。日系人を中心とする僧太鼓のメンバーたちとの交流は、ほんとうに心温まるものだった。また、オーストリア学派のマリオとデビッドとサンディとは、いっしょにソーホーへ、フランス料理を食べにいった。マリオのおごりである。英明・仁美さん夫妻とは、アパートのテラスでバーベキュー・パーティ。その他にも親しい友人たちとは、アベニューBのレストランで最後のお別れパーティをした。中華料理宅配店のコーニーさんは、私たちを自宅に招いてくれた。こうしてニューヨーク滞在の最後にもなると、これまで築いてきた友情関係を確かめるかのように、別れを惜しんで過ごしていた。帰国することは本当につらかった。「いつでもニューヨークに戻ってくるから、またすぐ会おうね」。そんな親密さがいつしか沸いていた。いずれ戻ることができれば、やはり戻りたい。ニューヨークにこそ掛け替えのない何かがあるというのは、滞在から得られた実感であった。

 

 

2.ソーホーでの生活

 滞在がはじまってから最初の数ヶ月間、私は主としてニューヨーク大学におけるオーストリア学派コロキアムへの出席と準備におわれていた。また、他方では語学学校に通って、英会話と英作文の勉強に多くの時間を費やした。毎週月曜日に開かれるオーストリア学派コロキアムについては、以前に「ニューヨーク日記」と題するエッセイのなかで書いたことがある(『創文』2001.1)。このエッセイの中でも、後に触れることにしよう。ここでは滞在から数か月が経った頃の話から始めたい。

海外生活も半年くらい続くと、ようやく語学面での生活にも慣れてくる。英語の論文もヨチヨチと書けるようになってくる。しかし不運なことに、生活に慣れてきたというちょうどその時に、私のアパートが火事で燃えてしまった。その時のことについてはあまり触れたくないのだが、とにかく火事を経験してから、私のニューヨーク滞在はまったく予期しない方向へと変容してしまった。火事で焼け出されて、その晩は近所の家の地下に泊めてもらった。そして翌日からは、サンフォード・イケダ氏のアパートに四日間宿泊させてもらい、さらに、ニューヨーク市が提供する被災者のためのモーテルに、約三週間も滞在した。その間、妻と私は新しいアパートを探していたのだけれども、なかなかよいアパートが見つからなくて、精神的にも肉体的にも、だいぶ追い込まれていたように思う。徒労感と金銭面での圧迫感だけが残った。とにかく私は貧しかった。日本の国立大学教員の給与では、ニューヨーカーの平均所得よりも低いのであった。

 結局、見つけたアパートは、地下の広いロフト(もともとは倉庫)であった。ソーホーというファッション街(日本でいうと青山のような場所)にあって、アパートの内装もアーティスティックであった。ここで三ヶ月間、サダさんというアーティストといっしょに暮らすことになる。

ソーホーでの生活体験はかなり刺激的で、私の人生の中で一つの転機をもたらしたように思う。生活全体が新しい経験に満ちていた。生活の条件が変わったおかげで、精神的にも変容していくことを実感した。ソーホーという街からたえず刺激を受けながら、私のニューヨーク滞在は面白いことになってきた。

もっとも私は、火事で焼け出されて、仕方なくソーホーへ引っ越してきたのであった。火事の後も、ニューヨーク市の役人とのやり取りや不動産関係者たちとの交渉が続いて、ニューヨークに暮らすことがほとほといやになっていた。さらに火事のショックから、私は日本語も英語も話すことができなくなっていた。言葉が出ない。言葉を話すだけで、悲しくなってしまう。私はソーホーでの生活に刺激を受けながらも、火事のショックに対する自己防衛として、いわゆる「引きこもり」の経験をしていたようである。

ソーホーの生活では、太陽の光がまったく入らない地下の部屋に暮らして、あまり会話をすることもなく、自由な時を過ごしていた。ときどき英語の論文を執筆していたが、あまり捗らなかったので、気晴らしにチャイナ・タウンを散策したり、音楽を聴いたり、ビデオをみたりして、感性を楽しませながら逃避的な生活を過ごしていた。暇をもてあましたときには、ドゥルーズの『差異と反復』を日本語訳で読んだ。この種のフランス哲学は、私がこれまで軽んじていた類のものなのであるが、生活環境が変化してしまったおかげで、こういう本を読んで適当にやり過ごそうとしたのであった。

 ところが面白いことに、この本を読みすすめていくと、ドゥルーズの哲学は、私のこれまでの研究に深い関係があることを理解するようになった。とくに彼のアリストテレス批判や「問題」概念の検討は、私の思想を発展させていく上で決定的に重要であると感じた。またソーホーに暮らすことによって、私はドゥルーズの思考を直観的に理解できるようになっていた。なぜか不思議とワクワクしてくる。読む前からその先が見えてくるようであった。こういう読書経験をすることは、人生においてめったにないだろう。『差異と反復』を読み終えると、こんどはドゥルーズ­­­=ガタリの名著『千のプラトー』を読みはじめた。火事とその後のソーホー生活によって、私の中にこれまでとは別の関心が湧き上がってきた。

 

 

3 テロ事件に遭遇する

 ドゥルーズ­=ガタリの主著『千のプラトー』を読み始めると、まもなくして今度は、あの「アメリカ同時多発テロ事件」(二〇〇一年九月十一日)が起きてしまった。ニューヨークに滞在してから一年と二ヶ月後に、私は歴史上の事件に生活ごと巻き込まれてしまったわけである。私が客員研究員として所属していたニューヨーク大学は、一週間以上も閉鎖されて、日常生活が戻るまでには相当な時間を要した。世界貿易センターが崩壊して、その映像がトラウマのようになってしまった。いったい、マンハッタンのダウン・タウンを中心とする世界経済のグローバル化は、どんな問題を世界に引き起こしているのか。世界貿易センターに突っ込んだテロリストたちの行為は、どんな信条に支えられていたのか。またそのような信条の背後にある社会的葛藤とは何なのか。私は事件が起きてから、とにかく国際政治を勉強しなければならないと痛感した。新聞や雑誌を買いあさって読むようになり、テロ事件を分析するという時事的な研究へと関心を移していった。

 その頃に読んでいたドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』には、「戦争機械、あるいは遊牧の民」という章があって、そこではチンギスハンにはじまるテロリズムの歴史とその組織編成が分析されている。そして今回のテロ事件について、これをドゥルーズ=ガタリの分析装置を使って考えていくと、いろいろなことが見えてくる。ポスト・モダニズムのバイブルと言われるこの本は、テロリズムの行為を、究極のポスト・モダニズムとして位置づけている。私はこの書物を読んで、テロ事件というものが究極の近代批判として解釈しうるということに関心を寄せた。『千のプラトー』を国際政治学に導入したといわれるネグリ=ハートの『帝国』(テロ事件後のベストセラー)もまた、テロリズムとアメリカ帝国批判の関係を論じており、私はこの種の分析に強烈な関心を抱くことになった。

 無論、テロ事件後に私が書いたいくつかの分析は、もっと現実的な問題を扱ったものである。事件直後は、私がニューヨークに滞在していたこともあって、現実に生じた諸々の社会問題を冷静に見つめなおすことに徹していた。炭ソ菌事件もあって、私の生活そのものが不安の中にあり、その不安を直視することが先決であった。地下鉄は混乱していて、乗車するときはつねに不安が付きまとっていた。またテレビのニュースを見るだけでも、ニューヨークで暮らすことの危険性を否応なく認識させられた。事件後のニューヨークには、次に何が起っても不思議ではないという雰囲気があった。そうした中で私は、息を殺すように暮らしながら、テロ事件の意味について考えていた。

 

 

4 ニューヨークの公共性

 テロ事件をきっかけにして、私の関心はグローバリズム批判や資本主義批判という問題へと広がっていった。ニューヨークという都市は、さまざまな国際問題が見えやすい場所である。例えば、ユーゴのミロシェビッチ元大統領に対する裁判が始まると、ニューヨークの地下鉄内ではミロシェビッチに対する批判運動が起こる。あるいは、イスラエル=パレスチナ問題が激化すると、両陣営のパレードがそれぞれマンハッタン内で大々的に展開される。世界経済会議に対しては、反グローバリストたちのデモンストレーションがゲリラ的に巻き起こる。このようにニューヨークでは、さまざまな国際問題に対して、それに利害を持った人々が実際に政治活動をするので、多くの国際問題が身近に感じられるのである。

とりわけマンハッタンの中心街を交通規制してまで催される各種のパレードは、大きな政治的・文化的意義をもっている。マンハッタンの道路は、人々の政治的・文化的表現を実現するための舞台であり、政治的な公共空間である。ニューヨークという都市は、政治的諸勢力が互いに闘争する拮抗関係を、その中心部においてそのまま表現させている。政治的自由を利用するための公共空間の創出とはまさにこのことだ。

 無論、マンハッタンの一部の地域は、荒廃によって、人間の粗暴な性質を剥き出しにする最悪の場所でもある。麻薬や犯罪に手を染めるギャングたちは闇の中で暗躍し、失業率の高い時代には多くの人々の精神を堕落させた。しかしその一方でマンハッタンは、人間の輝かしい美質を実現させるための最高の舞台を提供してもいる。ヨーヨー・マや五嶋みどりのように実力のある音楽演奏家たちは、ニューヨーク文化の誇りとして迎え入れられている。またマイルス・デイビスやジョン・コルトレーンのような黒人ジャズ・ミュージシャンに活躍の舞台を与えたのも、ニューヨークという都市に他ならない。陰と陽の激しいコントラストをもつこの街は、生きることのすばらしさと卑しさをいっそう厳しく認識させてくれる。

例えば、ミュージカルというアメリカを代表する演劇文化は、その背後にユダヤ人の資本があって、まさに欲望と野心とタフネスに満ちた「ニューヨーク的人生」というものを、表現しうるかぎり最高の仕方で謳歌しようとする。そのエネルギーは、ニューヨークにおける経済的成功の物語と呼応して、ユダヤ的な資本主義の底力をそれが人生の理想であるかのように称えるのである。アイン・ランドというロシア系移民の女流作家もまた、ミュージカル作品の脚本で成功し、一九六〇年代には、リバタリアンを代表する思想家として名をはせた。アメリカの大企業の独占や寡占というものがワシントンにおける政治家との癒着によって成立しているとすれば、ニューヨークのユダヤ資本と結びついたミュージカル文化は、そうした大企業の文化を否定して、あくまでも個人で社会を切り拓くことに、人生の理想を見出している。

ニューヨークでは個人主義的な生き方の成功と失敗というものが、鋭い対照をなして表れている。少数の成功者と多数の失敗者を生み出すような個人主義文化の街は、なるほど多くの人々にとって、過酷で住みにくい場所であるだろう。しかしニューヨークには他方で、左翼文化が開花しているという点が興味深い。現在でもニューヨーク知識人の多くは左翼であり、すぐれた文化の担い手として活躍している。例えば、一九六〇年代にマルクス主義の情報発信を担ってきた雑誌『ビレッジ・ボイス』は、現在では音楽や映画などのマイナーなアートに対する批評紙として、一定の左翼文化的な役割を担っている。また、リンカーン・センターには芸術のための公共図書館があって、CD、ビデオ、楽譜、書籍などを自由に貸し出している。ニューヨークにおけるさまざまな芸術家の活動を資料面で支援するというのは、文化的公共財を重んじる左翼的な思考の賜物である。実にニューヨーク市の財政は、資本家から税金を吸い上げて、これを左翼知識人の手によって活用することで、文化を豊穣なものにしている。公共財の供給によってニューヨークは、マイナーな文化を豊穣に育てており、こうした豊穣さそのものが、世界のさまざまな人々を引き付けてやまないのである。

また学術文化という点では、タイムズ・スクエアのすぐ南に位置する「市立図書館」がすばらしい。日本でいえば、渋谷駅と東京駅が隣接していて、そのすぐ隣に国立図書館があるような配置になっている。この図書館の建物それ自体もまた美しく、その隣にブライアント・パークという洗練された公園があることから、ニューヨークでは図書文化というものが、一つの文化的営為として象徴的に奨励されているような印象を与える。公共のすぐれた図書館が街の中心にあるということが、シンボリックな意味で「社会における知の成長」を表現かつ支援している。なるほどワシントンにおいてもまた、議会図書館という巨大な図書館が議会に隣接しており、市民や学者たちによって広く利用されている。このようにアメリカでは、公共図書館の社会的位置づけが、日本とはかなり異なる。日本の主要な都市では、街の中心部はデパートや商店街から成り立っているが、アメリカでは都市の中心部にかなり大きな図書館が位置しており、デパートの数は意外と少ない。日米のこうした都市のデザインの違いは、文化の資本を長期的に成長させていく際に決定的な影響をもっているだろう。充実した公共の図書館が中心部にあるならば、それは文化資本の駆動力となる。日本はこうした都市の設計から学ぶところがあるだろう。学問的公共性や芸術的公共性は、デパートに代わる位置を与えられるべきではないか。

ニューヨークやワシントンという都市の中心にあるのは、公共の広場であり、美術館であり、図書館である。そしてその公共性を担うのは、主として左翼的な精神をもった文化人であって、そうした人々は、大衆資本主義の野蛮な文化に対抗するという意識をもちながら、洗練された文化資本の重要な担い手となっている。ニューヨークには、一方では経済的に成功した人々が税金を払い、他方ではその税金に寄生して、洗練された文化の担い手たちが多く暮らしている。彼らは往々にして貧しく、公共的な機関や資金を利用しながら、マイナーながらもニューヨークの文化的多様性を生み出している。なるほど文化的な多様性は、巨大資本に取り込まれないような、無数のマイナー芸術を公的に支援することによって、はじめて実現するのであろう。市の財政政策を通じて、巨大資本とそれに寄生するマイナー芸術の共生関係を構築するそのスタイルこそが、ニューヨークという都市を魅力的にしているのである。

 

 

5 法哲学者 対 左翼知識人

ニューヨークにおいてマイナー芸術に理解を示す人は、例えば文学部で教える教員であり、彼らは文化的に洗練された知識人の代表である。しかし興味深いことに、文学部の教員の給与は、法学部の教員と比べるとかなり少ない。アメリカでは学部ごとに大学教官の給与格差があって、法学部やビジネス・スクールでは給与が高く、経済学部はその次、そして文学部や社会学部といった経済にさほど貢献しない分野の教員は、たとえ同じ大学内でも給与が低いのである。アメリカではこうして、文芸や哲学に興味を示す知識人は、その生活の下部構造からいって、平均所得以下の労働者たちに共振するだけの基盤を持っている。彼らがなぜ左翼であるのかは、生活の下部構造という側面から規定されていると言えるだろう。

まったくアメリカは、プラグマティックな社会である。哲学や文芸や歴史といった面白い学問を研究したいという人は多いので、そういう人たちの給与を下げてもよい人材が集まる。逆に言えば、よい人材を法学部や経済学部の教官として迎え入れるためには、高い給与を動機づけなければならないというわけだ。例えば、アメリカの一流の法哲学者たちの給与はおそらく、無数に存在する文学・教養系の大学の教員と比べて、二倍以上の給与を得ているだろう。高給取りの法哲学者たちが、なぜあれほどまでに法的正当性の問題にこだわるのか。それは、彼らがどうして高い給与を得るのかという問題と結びついているようにも見える。彼らの役割は、高い地位と給与をもらって、社会の正統性を保守することにある。これに対して左翼知識人は、低い給与に不満を抱きつつ、私的には文化的生活を楽しみながらも、社会的にはその支配構造に挑戦し、不平等を暴きたてるというインセンティヴが働く。すべてこうした文化的闘争の構図は、アメリカでは給与水準の格差という点から説明することができるかもしれない。これが日本では、法哲学者も左翼文化知識人も同じ給与と同じような地位を与えられているのだから、まったく社会的・文化的闘争のための条件が異なる。

ニューヨークで貧しい生活をしていた私にとって魅力的だったのは、法哲学よりも、左翼知識人やマイナー芸術家たちの活動であった。ニューヨーク大学の法学部ではロールズやハバーマスが合同ゼミを開いたりしていたが、そういう法哲学系の知識人が論じる法的正当性の議論は、巨大な資本が動くニューヨークにおいては、エスタブリッシュされた人々の幸福の神義論(自分の幸福な人生は許されるのかという議論)としか思えなかった。これに対して左翼文化人たちは貧しく、ニューヨークの経済的成功者たちが支払う莫大な量の税金に寄生しながら、そのお金を文化的・公共的に活用する実践に生活をかけていた。彼らの文化活動は、なるほど巨大資本に対する寄生によって成り立っているのだが、そうした活動こそが、ニューヨークの文化資本をたえず豊かにしているという自負がある。現在の日本社会に必要なのは、貧しい文化人が都市部において文化的多様性を生み出していくための公的支援であるだろう。「寄生的文化人の支援」という公共性の創出は、社会を多元的に成長させるための「資本投資」として認識されなければならない。ある意味で社会の「富」とは、資本に寄生する中で生まれる文化であり、寄生そのものである。文化人は、自分の生活が社会に寄生していることに腹を立てながらも、その文化資本を多様化する実践を通じて、経済的にはほとんど採算の取れないような、豊かな社会的富をうみだしている。ニューヨークにおける多元主義の文化を理解するためには、「社会的富」の概念に対する新しい考察が必要であるだろう。

 

 

6 オーストリア学派の人々

 ニューヨークの知識文化において私を捉えたのは、こうして「法哲学」対「左翼文化」という拮抗関係であった。では、ニューヨークのオーストリア学派の人たちは、どのような意識をもって研究生活を送っているのであろうか。私が見るところ、彼らはどちらにも属さない別の立場にあった。彼らのイデオロギーは、基本的には資本主義を擁護するものであり、ワシントンの政治文化に対抗して、ニューヨークの経済文化を正当化するという機能を果たしている。しかし彼らは、法哲学者のように高い給与をもらっているわけではなく、また学問的にエスタブリッシュされているわけでもない。オーストリア学派の人々は、市場経済を理解するための哲学的・社会学的なアイディアに反応して、純粋に学問を楽しんでいるようなところがある。そのイデオロギー的含意を政治的に利用することは、別の政治屋に任せているようだった。実際、アメリカでは、オーストリア学派を学ぶためのいくつかのセミナーが開かれており、また、関連する書籍もインターネットを通じて格安で売られていて、ビジネス界に対する一定の影響力がある。こうした状況の中で、オーストリア学派の研究者たちは逆に、純粋に学問を発展させることに専念できるのであろう。これは日本におけるマルクス主義研究者たちの事情にも似ている。

 ではなぜ、オーストリア学派の人々は自由主義のイデオロギーに賛同しているのだろうか。彼らの下部構造たる給与は、社会の自由主義化によってそれほど恩恵を得るようには思えないのだが、どうやら個々の研究者の信条には、それぞれの私的な理由が大きく作用しているようだった。

例えば、イスラエル・カーズナーはユダヤ人であり、戦後に生きるユダヤ人の一人として、十二人の子供を育てることに人生最大の任務をおいていた。また彼はユダヤ地区に暮らすラビでもあり、彼の経済理論はユダヤ教の教えと対応するような理論的側面がある。カーズナーにとって経済学の問題は、宗教上の信仰の問題でもあり、また、社会の秩序を原理的に立法化することでもあった。日本ではユダヤ資本に対する否定的な見方が多いけれども、カーズナーのように威厳があって信仰の深い人格者に出会うと、ユダヤ教の問題を人類の普遍的な精神の問題として、真剣に受け止めざるを得なくなる。

 サンフォード・イケダは、日系三世であり、日系移民の虐げられた歴史を背負って、オーストリア学派の研究に導かれていた。当時まだ日系移民には私的所有権が認められていないという理不尽な処遇から、サンフォードはいかに私的所有権というものが権利として重要であるか、小作農のマイノリティという立場から痛感していたに違いない。政府の規制があるから虐げられる。マイノリティを社会的に解放するためには、私的所有権の徹底と、政府の規制撤廃が至上命令でなければならない。そうした考え方は、彼の社会的・歴史的な経験から生まれたものであった。彼はすでに高校生のときにミーゼスを読んでこれに共鳴しているのだから、筋金入りのオーストリアンということになる。

またサンフォードは、ニューヨークでは「僧太鼓」という和太鼓グループのリーダー的存在でもある。このグループは、マンハッタンを中心に、月に二回ほどコンサートを催している。サンフォードのこうした文化的活動を考えると、政府に対抗するオーストリア学派のイデオロギーは、孤立した個人主義の擁護論ではなく、ある種のコミュニティ主義者の思想であることが分かる。和太鼓のコミュニティでは、標語に「一体感(oneness)」という理念が掲げられており、文字通り個人主義の否定ということが推奨されている。彼はそうしたコミュニティに自己の基盤を置きながら、政府批判を展開しているのである。彼の作った太鼓の曲は、とても洗練された、日本文化の発展に貢献するものであった。ニューヨーク文化の観点から言えば、おそらく彼の書いた論文よりも、僧太鼓の活動のほうが重要であるだろう。彼らの活動は、ニューヨークという多文化主義的な社会において、日本文化の自己主張を担っていた。

 サンフォードにはもう一つ、仏教思想という信仰が自由主義に結びついていた。彼は『干渉主義』という本を出版した後に、「仏教思想とプラクシオロジー(ミーゼスの理論のこと)」という論文をオーストリア学派のコロキアムで発表している。私もその原稿を読ませてもらったが、彼の精神の内面においては、仏教に対する彼の信仰が、オーストリア学派の思想と密接に結びついているのであった。カーズナーがユダヤ教との関係で経済哲学を研究しているとすれば、サンフォード・イケダは、仏教との関係で同じ経済哲学を解釈しているのであった。

マリオ・リッツォやデビッド・ハーパーの場合、彼らは性に対するマイナーな志向があって、マイノリティの視点から社会を見ているようなところがある。マリオは、イタリア系移民の息子であり、もともとマイノリティ意識があったのかもしれない。ハーパーはニュージーランドからニューヨークに来て三年目ということで、アメリカ人ではない。だから彼らは、アメリカ社会の成功を正当化したいとか説明したいという欲求はあまりないようであった。いわゆる新自由主義のイデオロギーといっても、彼らがそれを支持する場合には、ハイエク主義者たちのいう保守的な伝統や慣習を否定的に受け止めている。そうしたものを実体的に擁護するのではなく、抽象的かつ理念的に理解しているところがあった。いずれにせよ、彼らはニューヨークのマイナー文化を楽しんでいるようで、とくにマリオは大の映画好きでもあった。こうした生活的な側面から言えば、彼らは左翼知識人たちとあまり変わらないような気がする。

 ウィリアム・ビュートスの場合、彼は青年時代をおくった六〇年代に、ブルックリンにある彼の大学の講堂でアイン・ランドの講演を聴き、すっかり彼女に魅了されてしまったようである。アイン・ランド女史は、アメリカでは著名な大衆小説家であり、リバタリアンの思想家としても知られる。彼女の本は、ニューヨークではいまだに人気があって読まれており、おそらくオーストリア学派の誰よりも明らかに有名である。ビュートスによると、アイン・ランドは当時の講演で、リバタリアンの思想を知るためには、ミーゼスとロスバードを読まなければならないと強調したという。この話を聴いてさっそく彼はオーストリア学派の研究を志したというのだから、興味深い。ビュートスのように、アメリカでは、アイン・ランドを経由してリバタリアンの思想にたどりついた人が多いようである。ランドは若い人に強い影響を与えるような、人生哲学をもっている。それは決して資本主義のなかで金儲けをすることを正当化するのではなく、むしろそういうことが下手な人にも、自由主義がもつ人生道徳を感化させる力がある。

ランド経由にかぎらず、アメリカにおけるオーストリア学派の魅力は、ビジネスマンにとって、人生の信条問題として響いてくるという点が興味深い。トーマス・マケードの場合もそうで、技術者として成功した彼は、自分で開発した技術を別の会社に売ることで経済的にも成功したが、その後は大学の先生を務め、現在は退職して、自由にオーストリア学派研究をしている。あるいは、セミナーでお会いした何人かのビジネスマンは、自分が勤める企業が政府にロビー活動をすることで利潤を得ていることに納得がいかず、ビジネスマンの道徳の問題として、オーストリア学派の思想を真剣に受け止めていた。「オーストリア学派を勉強することが、私のパーソナルな欲求を満たしてくれるのです」というビジネスマンの発言に、私はこの学派の威力を思い知らされた。

 ヤンバックのケースは、また別である。二六歳のときにはじめてアメリカに渡った彼は、最初は技術者として働いていたが、三二歳のときにミシガン大学経済学部の大学院に入学した。彼は韓国の有名大学の理系出身であり、数学を重視する経済学部の修士課程ではトップの成績を収めたという。しかし彼は、そんな数学だらけの経済学に興味をもてなくなった。応用ミクロ経済学で有名なヴァリアン教授に質問に行くと、この教授はまったく機械的でつまらない人間だったという。そうしたことがキッカケになって、ヤンバックは経済思想研究を志す。これはまるで、私と似たようなケースである。私の場合、学部時代に新古典派経済学に違和感を覚え、大学院では、経済思想を志すことにした。これに対してヤンバックの場合、博士課程から経済思想を専攻したのであるが、ただし、ミシガン大学には経済思想や経済学史という科目を教える先生がいなかったので、「教員なしのレポート単位取得コース」を利用して勉強したという。ヤンバックは大量のレポート課題に挑戦し、さまざまな教官が反対する中で、経済思想という分野で博士号を取得した。つまり彼の場合、新古典派に対する嫌悪感と純粋に思想的な問題に関心をもったことから、オーストリア学派に近づいていったのであった。

 この他にもいろいろな人生談があるが、書き始めるときりがないので、この程度にしておきたい。オーストリア学派の人々は、それぞれの人生経験の中で、ある種の必然性をもって研究に情熱を注いでいる。経済思想というのは単なる趣味の観点から講じられることも多いが、私がニューヨークで学んだのは、オーストリア学派のイデオロギーというものが、その内部に多様性を持ちながらも、研究者たちの人生経験や社会実践に根ざしているということであった。この経験を得たことで、彼らの理論を安易に批判することができなくなった。細かな理論上の差異が、ますます重要であるように思えてきた。ニューヨークに滞在して、こうした現実を知ったことにやはり大きな意義があったと思う。学問研究というものも、出会いの中で生まれるものだ。私の『自由の論法』は鬼塚雄丞先生と嶋津格先生との出会いに基づいている。二作目の『社会科学の人間学』は、内田芳明先生や折原浩先生との出会いがあってこそ、主題を得ることができた。そして今回は、オーストリア学派の人々との出会いによって、私は大いに刺激を受けた。彼らの諸理論に対して、私なりの観点から応答したい。そんな欲求が、いつしか私の中に芽生えてきた。